暦の上では春、気温も春、じゃあ春だ。

それなりに長い文章になってしまったがまあ最近写真をぺたぺたと貼って誤魔化すということが増えているのでそれに比べればいいという感じもする。デジタルの世界において文字情報の伝達に必要とされる容量は本当にごくわずかである。携帯で撮れる写真一枚は2、300キロバイトの容量は平気で食うが、これは文字情報に直せば新書一冊分は十分にある。いくら文字を並べ立てても写真を閲覧するよりはずっと通信費が安いはずだから許して下さい、と、不用意にこの記事を携帯で開いてしまった人には弁解してみたりして。

さて。
今日はゲーセンに寄ってから学校といつものパターンを経て、学校では過去問などを少々。現代文しかやらなかったがまあそれなりに点は取れそうだ。古文や英語に関しては苦手なのでやる気が出なかった。いやそれじゃまずいんだけど。
帰りにもゲーセンに寄る予定だったが、帰り際に大先生に「がんばってますか?」なんてことを聞かれて「そりゃもちろん」と言ってしまったので、つじつまを合わせるべくゲーセンは回避した。ただし古本屋には寄った。
帰りのバスの中で100円で買った「小説トリッパー」昨年秋号の大塚英志の連載(「サブカルチャー/文学論」)を読んでいて気づいたのだが、ここしばらく私は大塚英志の文章を読んでいなかった。大塚英志というのは中学生の私に大きな影響を与えた評論家で、世間的にはまんがの原作者としての仕事(『聖痕のジョカ』とか『多重人格探偵サイコ』とか)のほうが評価されているのだろうけれど個人的には大塚英志はやっぱりまずなによりも前に評論家だと思う。
その評論家としての仕事はまあ置いておくとして、大塚英志の文章には中毒性があると私は感じている。読点が少なくまた若干文章がねじくれているがゆえに読む者に若干の緊張を強いる文体の中に独特の毒と皮肉が込められた文章。大塚英志の文章に感染してしまった私は結局、それなりにまとまった文章を書くときは大塚英志の下手なパクりしか書けなくなってしまった。多分意識して変えればまた違った文章を書くこともできるのだろうが、とにかくこの文体は書いていて気持ちが良いのでなかなか止められない。もしかしたら読みにくいのではないかという気もするが、自分で書いた文章が自分で読んでいてわかりにくいという事態はなかなか起こらないので結局客観的な判定は下せずにいる。2年のときに提出した原稿用紙170枚分のレポート(今考えると大した量ではないが)も基本的にはこの文体で通した。
今日久しぶりに大塚英志の文章を読んでああやっぱりこの文体はいいなあと思ったのでこうしていつものですます調を捨てて書きなれた多分読みにくいのだろう文章を書いているのだが、もしかしたら大学入試の小論文ではこういう読みにくい文章は嫌われるのかもしれない。採点者からすればなんだなんだこんな句読点もろくに打てないような奴の文章読んでられるかということで却下されるような気もする。私は文章を書く際になによりもまずリズムを優先してしまうタイプなので、リズム感のある文章は「うまい」し、リズム感のない文章は「へた」だと思う。だが赤本に載っている模範解答は確かに小論文としての要点は掴んでいるのかもしれないがその文章に切れ味があるとは思えない。もちろん設問に「筆者の主張に対して、1200字以内であなたの考えを述べなさい(ただし、切れ味のある文章で)」などと書いてあるわけではないので入試の解答としては正解なのだろうけれど。

さて、「つじつまを合わせる」べく、今日は古文の単語を覚えてから寝ようと思う。