学歴論、ふたたび

さてこの前私は「学歴」という価値観をひどくねじれた形で受け取ってしまったことに対する後悔と反省を書き連ねましたが、そのあと、今月はじめて定価で買った書籍、内田樹の『子どもは判ってくれない』(文春文庫)の中に、「学歴が知性の指標にならない時代」という示唆的な文章を発見しました。まずちょっとそれを参照してみたいと思います。

内田先生の主張はこうです。
昨今、「家庭の経済力がそのまま子どもの学力差に反映している」、という指摘があり、それは確かに統計的な事実である。しかし、「『学歴は金で買うもの』ということについて社会的合意が形成されれば」、「学歴は家具や車やワインと同じただの高額商品」になり、「それを『知性の指標』だと思う人はいなくなる」。
「それで誰か困る人が出てくるのだろうか」。

なるほど、これはまあまあ説得力のある論評であるように思われます。でも、「まあまあ」なのは、「金」は学歴を得ることを簡単にはしますが、しかしそれでも受験生個人の「努力」は必要であり続ける、ということが、ここでは見落とされているからです*1
確かに内田先生の言うとおり、「学歴が知性の指標にならない時代」が訪れつつある、ということは間違いないでしょう(それが社会的な常識になるまでには、かなり長い時間を要するとは思いますが)。しかし、「知性の指標」でなくなった後、学歴は「継続的な努力の指標」に変化するのではないか、と私には思われます。
「学歴が知性の指標にならな」くなりつつあるのは、入試が易化した結果です。なぜ入試が易化したのか、といえば、それは当の内田先生が指摘しているとおり、入試の合否は同年代の受験生間における相対的な学力によって判断されるから、です(そのため「学力低下」という「世代間」の学力差は、受験生自身には決して実感されません)。受験生全体の学力が緩やかに低下していくことによって、入試に要する「才能」と「努力」の総和は、年々下がりつつあるのです(たぶん)。

おそらく、昔はそうではなかったのです。「努力」だけでは入試を突破することが困難だったのです。昔の日本、あるいは現在のインド、中国、韓国などでは、受験生みんなが相当の努力を重ねるがゆえに、「努力」に加えて「才能」が、どうしても必要になります。だからこそ「学歴が知性の指標」になりえたのでしょう。
しかし入試が易化し、「努力」によって「才能」なしで入試に合格できる環境が整い、「努力が報われる」社会になったことによって(それが素晴らしいことなのは間違いないのですが)、「学歴」が得られなかった人間(「学歴」の価値体系に参加しようとして参加し損ねた人間)は、「努力が足りなかった」ということになってしまいます。

「頭がよい」ことより「努力できる」ことのほうが人間的にずっと素晴らしいことを知っているからこそ、その素晴らしさにたどり着けなかったことへの悔いは、より強くなります。「頭が悪い」ならしょうがないや、とあきらめもつきますが、「継続的な努力ができない」という事実を厳然と突きつけられると、私は言葉を失います。
受験が技術化し「努力」で対処できる領域が増えれば増えるほど、「敗者」はかつてとは別種の、もしかしたらそれよりずっと重い劣等感を刻み込まれる。そういう「学歴社会」が到来しつつあるように私には感じられるのです。






ところで「易化」という単語は当然「えきか」と読むものとばかり思っていたのですが、「いか」と読むらしいですね。でもどちらも広辞苑にも漢和辞典にも載っておりませんでした。リンダ困っちゃう。

*1:もしかしたら内田先生は「努力」は当然前提とされるもので、「その先」の話をしているのだ、とお思いかもしれませんが、その感覚は2007年度の受験生とはちょっとずれている、と言わざるをえません。