また、あした。

合唱祭で33Rが唄った「また、あした」は、その出だしのフレーズ「せかいとぼくはたたかっている」から一貫して、「せかい」と「ぼく」の関わりあいを主題にした合唱曲です。
作詞の島田雅彦が「きっとせかいがかつだろう」という言葉に込めたのは、「せかい」(=「ぼく」と「きみ」以外のすべてのもの≒「大人」たちとその社会)との戦いに、「ぼく」と「きみ」(=「こども」≠大人)はいずれ敗れざるをえない、という厳然たる事実ではないかと私は解釈しています。
(私を含めた)「こども」は、「大人」たちの社会に対する違和感を抱えています。芥川龍之介などは、生涯「こども」でありつづけた例なのではないかと思いますが、ほとんどの「こども」は、いずれ「大人」になって生きていくことを余儀なくされます。そうしなければ生きられないからです。哲学者中島義道が、常に「生きづらさ」を訴えているのは、中島が(「生きづらさ」を承知で)「こども」でありつづけているからに他なりません。
「こども」は、現実社会の理不尽さを受け入れることができませんが、「大人」はその社会に参加し、その枠組の中で生きていこうとします。最近の風潮で言えば「勝ち組」になろうとするのが「大人」としての正しい振る舞いです。にもかかわらず、「人生に勝ち負けはない」などとぬかす私のような人間は、「こども」以外の何物でもありません。「こども」は「世界」に「正しさ」を求めますが、「大人」は「世界」にそんな期待は持ちません。ただ、いま自分がおかれている状況の中でどううまく生きていくか、が「大人」の判断基準になります。ですから「大人」は、憲法違反であろうとなんだろうと自衛隊イラクに派遣できますし、「こども」は、たとえ莫大な資金と「国際社会」からの信頼を同時に失おうとも、テロリストに囚われたひとりの日本人青年を助けるために自衛隊を撤収するべきだ、などという主張をしたりします。
これは「正しい」とか「間違っている」という問題を超えた価値判断の問題であり、「こども」と「大人」のどちらが正しい、といった客観的な解答は存在し得ません*1
サヨク青二才」こと島田雅彦は「こども」の部分を多く持ち合わせた作家ですが、皇太子妃雅子を思わせる人物の恋愛劇「無限カノン」の第二部『美しい魂』を、右翼による襲撃のリスクを考慮して出版を見送りの判断をするなど、「大人」の判断もしてきた人物です。そういう、「こども」であり「大人」である島田が、全国合唱コンクールの課題曲に寄せたこの詞は、「たとえせかいがかったとしても/けっしてきみはまけないだろう」「つかれたらおやすみ」「また、あした」というメッセージを残して終わります。
ここには島田の「あした」(=未来)への希望の仮託が見て取れます。「きょう」、「きみ」は「せかい」に負けるかもしれない。けれど、「あした」は違う(かもしれない)。いつかきっと、「ぼく」と「きみ」は「せかい」に勝つ。そういう期待を込めてこの曲は終わります。
内田樹(というか、そのネタ元であるミシェル・フーコー)は、歴史は良いほうへ向かって展開するもので、「いま、ここ」はその最前線である、というような考え方を痛烈に批判しており、その主張はたしかに的を射ています。でも、しかし。未来(「あした」)に今だかつて人類が到達し得なかった世界が成立する可能性は、ある。そういう世界を待望する「こども」の心を忘れてはいけない。「また、あした」の精神は、いま突然「大人」になろうとしている日本社会にこそ、必要なのではないかと思います。

って、私は村上隆の『芸術起業論』の感想を書こうと思ってただけで、これは話の導入部なんですけど、ずいぶん長くなったのでそれはまた、あしたにでも。

付記 これを書きながら33Rの合唱をリピートで聴きつづけていたのですが、何度聴いても35よりこっちのほうがいいです(笑)。ごめんなさい。

*1:ちなみにこの区分で言うと、人間以外のすべての動物は生まれながらにして「大人」です