アンティゴネ

問題は生きる意味をどこに求めるかと言うことに帰結する。
アンティゴネーは死骸となった兄の尊厳を守ることに、クレオンは国家の治安を維持し職務を全うすることに、そしてイスメネは「生きる」ことに、それぞれ生きる意味を求めた。生きる意味をどこに求めるかは個々人の自由である。だから、私はそれを批判こそすれ否定はしない。そしてその態度はイスメネに対するアンティゴネーのそれと通底する。
私はイスメネの態度に賛同しかねる。イスメネは生きることそれ自体を目的としてしまっている。生命そのものに絶対的な価値を認めてしまったとき、人は自らの人生をよきものにしようという欲求を喪う。それは「生きる」ことにある種甘えているように私には思える。
クレオンは前王の尊厳よりも国民感情の安定を優先した。そこには嘘がある。真実を捻じ曲げてつくりだした虚構の正義は、しばらくは国内の安定に寄与するかもしれないが、その虚構性が白日の下に晒されたとき、砂上の楼閣としての一面を露呈することになることは明らかである。国家には理念と言うものが不可欠であり、理念なき指導者に国家の統一が図れるわけがない。クレオンは理念の代わりに虚構の正義を持ち出しポリュネイケスを亡国の徒として扱ったが、民衆というものはそれほど愚かではないはずだ。事実として民衆はその虚構性に気がつかなかったかもしれないが、正義を捏造するよりもクレオンが自らの良心にしたがって理念ある政治を行うことこそが、最も安全で、かつ「正しい」手法であったのではないだろうか。正しさを喪った政治は脆く、崩れやすい。
先程、アンティゴネーは死骸となった兄の尊厳を守ることに自らの生きる意味を見出したのだと述べたが、それは表層的な理解に過ぎない。彼女は、正しくありつづけることにこそ生きる意味があると考えたのであって、ただ兄に殉じるために死んでいったわけではない。
あらゆる命は究極的には無意味である。すべての人生に意味などないし、すべての死は犬死にである。その圧倒的な現実のなかでは哲学家の語る言葉など戯言に過ぎない。しかし人は無意味を意味として生きる。そのとき本当に意味を持ちうるのは、生の無意味をも超越してなおその意味を信じさせてくれる事柄だけだ。イスメネは自らの妥協に本当に意味を見つけられるだろうか?クレオンは自らの正しさを絶対的に確信できるだろうか?
もしクレオンやイスメネが良心などかけらも持たずに毎晩高枕で眠っていたとしたらどうだろう。彼らは自らの選択の正しさを信じ、意味のある人生だったと総括して死んでいく。それでも別にかまわない。勝手に安らかに死ねばいい。だが私は決してその意味を認めない。彼らの生の無意味を、そしてアンティゴネーの死の意味を確信する。アンティゴネーの美しい魂は数千年の時と数千キロの距離を越え、私に生きることの意味を教える。彼女の死は、絶望ではなく希望である。



追記(2007年12月7日) これをなんでここにアップしているのか理解できないが、何か意図があったのだろうと思うのでそのままにしておく。読んでも意味がわからないのではないか。すみません