「わたし」?

ずるいと指摘されるのを承知で旅日記の話。どぴゅっ★ってなんだ、とか言うことではなく、最後のあたりの話を。「記憶は後から作られただけでほんとは昨日なんてなかったんぢゃないか」ってことについて。
山本弘の「闇が落ちる前に、もう一度」*1という短編のネタを完全に割るので要注意。

この小説は若い男の学生が、モンゴルで恐竜の発掘調査をしている彼女に送ったメール、という体裁で書かれた20ページくらいの短い作品です。

宇宙物理学を専門としている男はある日、この宇宙の仕組みについて、「極大エントロピー宇宙モデル」という仮説を立てます。
この宇宙が形成される前には、ありとあらゆるものが何の区別もなくぐちゃぐちゃと流動し続けている、秩序のない「極大エントロピー」の状態があった。その状態が、繰り返し繰り返しいろいろな状態となってはまた元に戻っていく。観測可能な素粒子は10の80乗個あるが、それらが取りうる組み合わせは、10の10乗の10乗の10乗の10乗の15乗通りあり、秩序の取れた宇宙が作られる可能性は極めてゼロに近い。けれど、無限に素粒子の組み合わせが変化し続けるならば、この宇宙のような状態が生じることもある。
……というのがこの仮説で、男(と研究室の仲間たち)は実験の結果、「クォークの測定」(よくわからないけど)を行い、この宇宙が7日前にできたものであることを実証します。
「人間の脳だって、しょせん原子の集まりだ。知識だの記憶だのってものも、原子が集まってできている」以上、それ以前の記憶はすべて、この宇宙が7日前に形成されたときに生み出されたものに過ぎない、というわけです。

その後はまあ読んでください。いい話です。
ようするに、記憶ってどこまで信じられるの?ということが問題なわけです。
「私」というものが、生まれてきてからずっと「同じ私」であるということを支えるものは記憶以外にありえないわけです。「人間は約七年で、体を構成するすべての元素が完全に入れ換わってしまう」(竹本健治匣の中の失楽』ノベルス版あとがき)のだとすれば、7年前の「私」と現在の「私」をつなぐものは、ただ記憶しかないはずです。でもその記憶ほど疑わしいものはないわけで、じゃあ「私」は、方丈記の「行く川のながれ」状態?ってことになってしまいます。
こういうことを考え始めると生活に支障を来たすので、とりあえずそういうことは保留して生活しているわけです。事実、今考え始めてすっかり疲れてしまった私がここにいるわけで、みなさんはこういう風にならないように気をつけて頂きたいものです。眠くなっちゃった。

毎晩寝ると、その間の記憶がない(当然だ)。連載された短編のように人生は不連続である。
――森博嗣『100人の森博嗣』より

*1:角川書店『審判の日』に収録