朝の学エフェ

なぜか急に早起きです。特に目的もないのですが。
おととい大学の図書館で内田樹の『狼少年のパラドクス』という本を借りて昨日読み終わったのですが、これがどうも他人事とは思えない話が多かったです。「他人事とは思えない」というのは、「他人の話なのだけれども自分の経験と照らし合わせて看過しえない共通点を感じる」という意味でも「ここで指摘されている問題はいずれ私個人にも影響をもたらすだろうと予感する」という意味でもなくて*1、単に「日比谷高校」とか「早稲田大学」とかついでに言えば「首都大学東京」とかいった名詞が登場する、というだけのことです。
それぞれどんな文脈で登場するのか、というと、「日比谷高校」は内田先生の母校、というかたちで、実にノスタルジックに魅力豊かに描かれています。「クラスでまんなかくらいまでにいれば『東大当確』」で、しかし「まじめに受験勉強をすることが禁忌」な「いやみな学校」であり、「一度吸ってしまうと、もう抜けない」独特の「日比谷高校の空気」が存在していたのが、1966年の日比谷高校だったのです。内田先生は高校を中途退学しているので内外から高校のすがたを観察することができたのでしょうが、私は「高校」のデータを一校しか持っていないのであまり客観的に「うちの高校はこんな高校だったよ」ということができません。しかし「日比谷高校生たちは同世代集団としては、私がこれまで出会った中でもっとも愉快で刺激的な人々たちであった」という「感想」は共有できます。内田先生の「愉快さ」は「実に多くの個性的で魅力的な秀才たち」によってもたらされたものですが、うーんとまあ、たしかにそういう人たちはいたかな、と思います。もうちょっと「いやみな学校」になるともっといいと思いますが、そういう「いやみ」な人材は片手で数えられるほどしかいなかったような気がしますけど(別に「いやみ」じゃないことが悪いわけじゃないですよ)。
うってかわって「早稲田大学」は完膚なきまでにその姿勢を批判されていて、もはやちょっと笑うしかなかったのですが、それはもうその指摘がとっても正しいからです。批判の要諦は「今の早稲田の受験生に向けた広告の仕方は、「イマドキの受験生はバカだ」という判断に基づいている」というものです。あーもうほんとにそうだと思います。「私たちが若い世代において涵養すべきなのは、こういう愚民化的パブリシティを採用するような大学には「絶対行きたくない」と感じる知的センサーだと思う」という指摘に対しては沈黙するほかありません。ごめんなさいセンサーがポンコツで。
特に私と直接関係はない(名前が嫌だから受けなかった)「首都大学東京」は、ある意味早稲田よりひどい批判を受けています。「日本語運用能力と論理的思考力にいささか難のある学長」と、「教育について真剣に考える習慣のない政治家」によって運営される大学はうまくいくはずがなく、「首都大学東京は日本の高等教育史に残る劇的な失敗例となるだろう」とのこと。うーん、ここではセンサー動いたんだけどなぁ。

さて学エフェ。
志太野坡 しだやば(人名ですよ)
増本量 ますもとはかる
清岡卓行 きよおかたかゆき
北畠八穂 きたばたけやお
福谷 うきがい
百合 もまい
白人 ちろっと
国縫 くんぬい
来止臥 きとうし
斉王 いつきのみこ
漢織 あやはとり
鹵石 ろせき
月代 さかやき
御統 みすまる
長岡良子 ながおかながこ
板倉勝静 いたくらかつきよ
皇海山 すかいさん
三次市 みよしし
八街市 やちまたし
兀庵普寧 ごったんふねい
なまず

*1:この本の内容がそういう効能を持たないのか、といえばそういうわけでもないのですが