メモ

記号的な殺人と喪の儀礼について(内田樹の研究室)

今般の事件についての内田先生の分析。時間のある方は是非お読みください。



ポイントは、対象を「記号」として取り扱わなければ、人を殺すことは困難だ、ということです。

そこに生身の身体があり、その身体をはぐくんできた歳月があり、親があり、子があり、友人知人たちがあり、彼自身の年来の喜び悲しみがそこに蓄積しているということを「感じて」しまうと、どれほどはげしい怒りにとらわれていても、人を殴ることはできなくなる。

だから「今回の犯人の目にもおそらく人間は「記号」に見えていたのだろう」というわけです。

犯人が、殺めた相手を生身の人間として認識していなかったのだとすれば、被害者がどんな人間で、どんな環境で育ち、生きてきたか、という報道は、事件の根幹を理解するうえでは意味を持ちえません。

それゆえ、この事件を理解しようとする人間は犯人と同じように、「死者たちひとりひとりが何者であったかということは、とりあえず『脇に置いて』」というところから始めることを強いられる。


勝谷誠彦は、殺意を持った人間が起こす事件なんだから、たまたま運が悪かった、というイメージを起こさせる「通り魔」という表現は止めたほうがいい、というようなことを言ってましたが、先ほどの議論を踏まえると、「たまたま運が悪かった」というのがほんとうは正しい理解だ、ということになります。


私たちは記号的に殺された死者たちをもう一度記号的に殺すことに「加担」させられることなしには、この事件について語ることができないという「出口のない状況」に追い詰められているのである。